煤払、忠臣蔵
昨日、地元のニュースで犬山城や岐阜城などの煤払(すすはらい)の様子が映し出されていた。
煤払が特定の日だとは思っていなかったので調べてみると、正月の準備に取り掛かる正月事始が12月13日からで、煤払はその最初の行事とあり、井原西鶴の「世間胸算用」にも「毎年煤払は極月十三日に定めて」と書かれており、公家、武家、町人ともに13日が慣例であったそうである。
さて今日は14日、忠臣蔵、赤穂浪士の討ち入りの日である。(実際は旧暦なので、新暦では1月16日であるが・・・)忠臣蔵は本伝はもちろん、銘々伝、外伝も面白いものが多い。
ここからは、忠臣蔵外伝「松浦の太鼓」を紹介したい。精度は欠くが、要約してみたものである。
討ち入りの前日、両国橋で芭蕉の高弟である宝井其角が赤穂浪士で煤払の笹竹売りに身をやつした大高源吾にに出会う。
二人が挨拶を交わしたあと、其角が俳句を教えている松浦候からの戴き物の羽織を源吾に着せかけた。そして、
其角が「年の瀬や水の流れの人の身は」と詠み掛けると
源吾は「明日待たるるその宝船」と詠み返した。
翌日、討ち入りの日、吉良邸の隣にある松浦邸で句会があり、其角は両国橋での出来事を松浦候に話し、松浦候は主君の仇も討たずに笹竹売りをしている源吾に羽織を与えたことに激怒した。その時、隣の吉良邸から山鹿流の陣太鼓が鳴り響いてきた。そこで、松浦候は両国橋での源吾の詠み返しの意味を理解したのである。
源吾が松浦候の面前に現われ、本懐を遂げたことを告げると、松浦候は落涙し、「浅野殿は誠に良い家来をもたれた。」と声高に言うのであった。
其角が源吾に辞世の句を問いかけると、短冊を松浦候に差し出し、松浦候が読み上げた。
山をぬく刀も折れて松の雪
其角には次のような佳句がある。
我雪とおもえばかろし笠のうへ
日の恩やたちまちくだく厚氷
月雪の中や命のすてどころ
これらの句も討ち入りと関連していれば面白いが、どうもそうではないらしい。