影とシェイクスピア
普段は自分の影など意識することはないが、散歩をしているとあまりにも自分の足が長くなっているので、喜び勇んで写真に撮ってみた。
もう少し経てばもっと足が長くなると思ったが、十数分もすると日と影の見分けがつかなくなり、儚くも影は消えてしまった。
そして、影に思いを巡らせているとシェイクスピアに意識が飛んで行った。
先ずは「リア王」である。
娘に裏切られたリア王と道化の台詞がある。(一部のみ)
リア王:だれでもいい、教えてくれ、わしは何者なのだ。
道 化:リアの影法師だい。
私がシェイクスピアに一時期のめり込むきっかけを作った小田島雄志さんは、「この台詞を自分では書けないので、劇作家になるよりシェイクスピアのセールスマン(教授、翻訳、エッセイなど)になった方が良い。」と思ったそうである。
王冠を被っていればリアだが、娘たちに王冠を譲ってしまったからリアの実体を失った影法師にすぎないという意味だが、その反対に、影法師なのは王冠を被っていた時のリアで、王冠を失った老人こそがリアの実体との解釈もできる。
私は6月に会社勤めから隠居人になったが、会社人間としての肩書を持った自分は影法師であり、今の自分はすべて実体であると思っているので、リアの実体も王冠を失った老人であると解釈していいのではないかと思う。
今から思うと、会社勤めの時は自分の職務と職責にあった役割を精一杯演じていたとも言える。隠居人は影法師を切り離した実体(自由人)である。