荻須高徳展
昨日のブログで皆さんに心配をかけてしまったが、一昨日吐いてから痛みは和らぎ、元気を取り戻しつつある。
今日は稲沢市荻須記念美術館へ行って来た。現在、荻須高徳の生誕120年を記念して荻須高徳展が開催されているが、明日が最終日であり、間に合って良かった。
私は街の風景画を観ることが好きで、今回の展覧会は副題が「私のパリ、パリの私」とされているように、パリの街角、建物などの絵が多い。
パリを描く画家としてユトリロも大好きであるが、この二人が同じ場所「コタン小路」を描いているので比較してみたい。
荻須高徳がコタン小路を描いたのは、ユトリロが描いた約25年後である。
荻須高徳は、どちらかというと濃く深みがある絵が多く、ユトリロは、白っぽい絵が多いという印象がある。もちろん、ユトリロも深みのあるものもあり、絵に造詣の深い人からは叱られそうだが、素人の個人的な印象である。
最近のコタン小路の写真は以下の通りである。上のユトリロの絵と下の写真は、井上輝夫、横江文憲、熊瀬川紀共著「ユトリロと古きよきパリ」新潮社とんぼの本から引用した。
今日行った美術館は、愛知県の稲沢市に生まれた荻須高徳を記念して1983年に開館されたが、現在はアトリエも復刻されている。
展示されていた絵画は81点であったが、どれも興味深く観賞することができた。また、今日購入した図録には、前から読みたかった1980年に発刊された画文集「私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想」が掲載されており、思わぬ貴重なお土産をもらった気分である。
往復は車で、歩いた距離は1km程度ではあったが、身体の慣らしになった。この展覧会がなかったら、今日も家に燻っていたかもしれない。明日は散歩再開である。
吐血
11月20日から腹痛が始まり、休み明けの22日に医者へ行き薬を飲んでいたが、良くなったり悪くなったりで、トレンドとしては悪くなっていたようである。
昨日も痛みがひどく、ブログも休んで痛みに耐えながらゴロゴロしていた。
夕方に吐き気を催したので、トイレに行き2回ほど戻し、トイレットペーパーで鼻をかんだり口を拭いたりした後、もう一度戻した。その時はトイレットペーパーに赤い血がはっきりと確認できた。(汚い話で申し訳ない。)
夏目漱石の修善寺の大患と違い、吐血の量も盥(たらい)と湯呑ほどの違いはあるものの、少し心配になった。(そう言えば、12月9日が漱石忌であり、ブログに書くつもりであったが忘れていた。)昨日は休診日であったが、腹痛で診てもらっている近所の医者の個人携帯に連絡し、症状を話し、今日の朝、胃カメラで検査してもらうことになった。
いつも人間ドックでは胃カメラで苦しむが、この医者は巧く苦しむことはなく良かった。胃カメラで撮っている映像を見ながらいろいろと説明を受けたが、吐血の原因は逆流性食道炎であった。医者からは「こんなにひどくなるまで我慢する人はいませんよ。」と言われたが、我慢できなかったから、11月22日と29日に診察を受けたのだと言いたかったものの、口から胃カメラが入っていて言えなかった。
逆流性食道炎は薬で治せそうであり良かったが、胃癌の疑いが濃厚であるというポリープが見つかり、生体検査に出され1週間後に結果がわかる。毎年人間ドックを受けているので、癌であっても初期のものだと思うが、癌でないことを望んでいる。
虎と年賀状
今朝の中日新聞に、東山動物園へスマトラトラの2歳の雄「アオ」が仙台の八木山動物園から、12月14日にやって来たという記事が載っていた。
なかなか凛々しい顔立ちである。
9月20日のブログで「東山動植物園」を書き、すぐにでも行くつもりであったが、まだ行くことができていない。1か月前に腹痛が始まり、三寒四温ならぬ三痛四快であるが、アオも来たので早く行きたい。
昼には、今日から年賀状の受付が開始され、日本郵政のJPタワーでセレモニーが行われたとのニュースが流れていた。
私はいつもクリスマスの頃に投函しているので早い感じがするものの、一昨日知ったことだが、13日が正月事始であれば、暦通りに動く律儀な人にとっては早過ぎることではない。
年賀状は一度やり取りを始めるとずっと続いてしまうものだが、会社を退職したこともあり、けじめをつけようと思っている。会社の後輩たちは先方からは止められず、負担に思っている人も多いと思うので良い機会である。文面をどうするかをよく考えなければならない。
来年は寅年である。年賀状の文面は後からゆっくり考えることにして、画材は新しく東山動物園に来たスマトラトラの「アオ」にすれば良い。早く東山動物園へ写真を撮りに行こう。
煤払、忠臣蔵
昨日、地元のニュースで犬山城や岐阜城などの煤払(すすはらい)の様子が映し出されていた。
煤払が特定の日だとは思っていなかったので調べてみると、正月の準備に取り掛かる正月事始が12月13日からで、煤払はその最初の行事とあり、井原西鶴の「世間胸算用」にも「毎年煤払は極月十三日に定めて」と書かれており、公家、武家、町人ともに13日が慣例であったそうである。
さて今日は14日、忠臣蔵、赤穂浪士の討ち入りの日である。(実際は旧暦なので、新暦では1月16日であるが・・・)忠臣蔵は本伝はもちろん、銘々伝、外伝も面白いものが多い。
ここからは、忠臣蔵外伝「松浦の太鼓」を紹介したい。精度は欠くが、要約してみたものである。
討ち入りの前日、両国橋で芭蕉の高弟である宝井其角が赤穂浪士で煤払の笹竹売りに身をやつした大高源吾にに出会う。
二人が挨拶を交わしたあと、其角が俳句を教えている松浦候からの戴き物の羽織を源吾に着せかけた。そして、
其角が「年の瀬や水の流れの人の身は」と詠み掛けると
源吾は「明日待たるるその宝船」と詠み返した。
翌日、討ち入りの日、吉良邸の隣にある松浦邸で句会があり、其角は両国橋での出来事を松浦候に話し、松浦候は主君の仇も討たずに笹竹売りをしている源吾に羽織を与えたことに激怒した。その時、隣の吉良邸から山鹿流の陣太鼓が鳴り響いてきた。そこで、松浦候は両国橋での源吾の詠み返しの意味を理解したのである。
源吾が松浦候の面前に現われ、本懐を遂げたことを告げると、松浦候は落涙し、「浅野殿は誠に良い家来をもたれた。」と声高に言うのであった。
其角が源吾に辞世の句を問いかけると、短冊を松浦候に差し出し、松浦候が読み上げた。
山をぬく刀も折れて松の雪
其角には次のような佳句がある。
我雪とおもえばかろし笠のうへ
日の恩やたちまちくだく厚氷
月雪の中や命のすてどころ
これらの句も討ち入りと関連していれば面白いが、どうもそうではないらしい。
ホンダF1、有終の美
今年でホンダはF1から撤退するが、最終戦のアブダビGPでマックス・フェルスタッペンが勝利しドライバーズチャンピオンになった。それも最終周回での大逆転である。ホンダにとってもアイルトン・セナの時以来、30年振りのF1タイトル獲得となった。
今年のフェルスタッペンとハミルトンの戦いは、一時険悪となることもあったが、最終戦前まで同ポイントとかつてない接戦であり、とても見応えがあった。二人の健闘を讃えたい。
ホンダは試合当日の新聞に、ライバルチームに対して全面広告を出した。驚くべきことである。
これに対し、トヨタもエールを送っている。今までにこんなことがあったであろうか。企業間のスポーツマンシップを見ているようである。感慨深い。
私の父親がホンダの二輪車の愛知県での卸売り会社を経営していた(相当前の話)ので、物心ついた頃からいつもホンダは身近な存在であった。
ホンダが最初にF1に参戦した時(その時、私は小1)には、ホンダの四輪車は軽トラックとS600しかなかった。その前、二輪車に参入した時もすぐにオートバイレース最高峰のマン島TTレースに参戦していた。本田宗一郎は常に世界のトップを見据えていたのである。
世間からは無謀とも思われていたF1参戦であったが、翌年の1965年にはリッチー・ギンサーが乗りメキシコGPで優勝した。1967年にもジョン・サーティースが乗りイタリアGPで優勝したが、1968年をもって活動を休止した。
その後、1983年に復帰し快進撃を果たし、、アイルトン・セナというスーパースターも加わり、F1人気は絶頂期を迎えた。
その後も休止、復帰を繰り返したが、ガソリン車としての復帰はもうないであろう。
ホンダはマスキー法にもいち早く対応し、自動車メーカーとして飛躍した。F1もホンダに勝たせないためのレギュレーションの変更が数多くあったと思うが、その都度克服し逆に技術の進歩につなげた。
今回、自動車業界は今までとは全く違う変革を求められているが、本田宗一郎から続くホンダイズムが生き続け、カーボンニュートラルを克服し、新たな自動車メーカーとして生まれ変わると信じている。
その時は、電気自動車のレースで世界を席巻してもらいたい。
妻の誕生日
昨日(12/11)は妻の誕生日であった。結婚して38年目になるが、初めてレストランを予約し妻の誕生日を祝った。
このあと、レストランの方が記念写真を撮ってくれた。JALシティ名古屋というホテルのカフェ カナルというカジュアルなレストランであったが、アットホームな感じでいろいろな心遣いがうれしかった。
ホテルへは家からバスで行ったのだが、交通渋滞があり1時間で着くつもりが1時間半もかかってしまった。途中の栄という繁華街は人でごった返していたが、このレストランは感染対策がしっかりなされていた。席数も限定され、休日であるからかもしれないが、店内に客のグループが点在し、とてもゆったりとしていた。
テーブルには、キャンドルが置かれていた。
キャンドルの灯がゆらぐように、静かに時が過ぎて行った。
クリスマスが近くなっているが、その雰囲気はあまりなくサンタクロースの人形が一つだけあり、存在感を示していた。
食事も美味しく、昨夜は妻も楽しそうであった。
隠居人となって半年経ったが、仕事をしていた時とは違う時間が流れており、今までできなかったことがいろいろとできるようになった。これからも新しいことをもっともっと行って、充実した時を過ごしていきたい。
江國滋さんの闘病俳句
このブログで、何度か東京やなぎ句会のことを取り上げたが、江國滋さんもそのメンバーの一人であった。彼の本は楽しくて蘊蓄があり、私は落語や俳句、旅行などのエッセイをよく読んでいた。
しかしながら、江國さんは平成9年(1997年)2月6日に食道癌の告知を受け、同年8月10日に62歳で亡くなった。その間、闘病日記を書き、闘病俳句223句を残している。
この本は、1997年12月に発行されるとすぐに購入して読んだ。亡くなる2日前に書き付けた辞世の句
おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒
が本の表題となっている。
いつもは本を購入すると帯は取って捨ててしまうが、帯の裏側に瀬戸内寂聴さんの話が載っていたので捨てずに付けたままにしている。その寂聴さんも今はもういない。内容は以下の通りである。
江國さんは電話で私にそれを知らせてきた。
「医者が何と言ったと思います・・・・・・、高見順ですねって」
癌告知されたのが自分でなく第三者のような話し方だった。私は胸が痛くなった。
「でも、これで俳句の大傑作が生まれるでしょう。それをやらなきゃ」と言った。
その言葉を待っていたように、一呼吸も入れない速さで、「そう、そうですよ。もう作りはじめています」
「命をかけたものは傑作に決まっていますよ」
「そうか、命をかけているのか」江國さんはそう言って、急に沈黙した。
この克明な闘病日記が書きはじめられて十一日目、1997年2月15日のことだった。
(注:医者が高見順ですねと言ったのは、高見順が食道癌で亡くなっているからだと思う。)
江國さんは、亡くなる20年前に「俳句とあそぶ法」を書いている。私が俳句に興味を持つきっかけとなった本の一つである。
この本の中で、江國さんは、
「いっそのこと、病気にでもなって、入院でもして、手術の一つでも受けたら、あッとおどろく病床名句があとからあとから雲のごとくわいてくるかもしれない。子規を見よ、三鬼を見よ、波郷を見よ。すぐれた俳人のすぐれた俳句はみんな病床から生まれているではないか。漱石が『秋風や唐紅の喉仏』などというすごい句を作ったのも、あれは有名な修善寺大患の直後だった。そうだ、そういうものかもしれない。光は東方から、名句は病床から。・・・・・・」
と、ユーモアたっぷりと書いている。
急にこんなことを書いたのは、先月腹痛がひどく夜寝られない時に、江國さんのように病中吟を詠んでみようと思ってみたからである。その時作った句は、
胃痙攣耐え忍ぶ夜や神の留守
であるが、作句の力✕病の重さに比例するのか、自分の下手さ加減と江國さんの凄さを思い知った。
江國さんは「俳句とあそぶ法」で書いた通り、病床で多くの佳句を残し、寂聴さんが言ったように大傑作を生んだ。敬服に値する最期であった。