さすらう隠居人の日記

旅、俳句、映画、ゴルフなど

日米開戦

8年前の1941年(昭和16年)12月8日、日本が山本五十六連合艦隊司令長官のもとに真珠湾を奇襲攻撃することにより、日米開戦となった。

f:id:sasurau64:20211208205006j:plain

山村聡扮する山本五十六
(映画「トラトラトラ」より)

1941年6月22日、ドイツが対ソ宣戦布告し、破竹の勢いで侵攻しモスクワ陥落も間近と考えられ、日本も「バスに乗り遅れない」、「尻馬に乗る」というと語弊があるかもしれないが、この後急速に日米開戦に向って突き進んで行った。

節目節目では御前会議(日米開戦まで昭和16年に4回)が開催されたので、その内容を参考に経緯を見ることにしたい。

1941年7月2日
この会議で、大東亜共栄圏の建設、南北併進、目的達成のためすべての障害を排除する、帝国は本号目的達成のため対英米決戦を辞せず、などが明文化された「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定された。(この後、7月23日に日本軍は進駐を決定、26日にアメリカは在米日本資産を凍結、28日に日本軍はサイゴンへ進駐、8月1日にアメリカは石油の対日輸出を全面的に禁止した。)

1941年9月6日
戦争を辞せざる決意の下に外交交渉を行い、十月上旬頃に至るもなお要求を貫徹し得る目途なき場合においては、直ちに対米開戦を決意するという内容の「帝国国策遂行要領」が決定された。(天皇明治天皇の「よもの海まなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ」の御製をもって、軍に対する警告をし、平和愛好の精神を示した。また、この後、10月に近衛内閣は政権を投げ出し、東條内閣が成立した。)

1941年11月5日
12月初頭の英米蘭戦を定める「帝国国策遂行要領」が改めて決定された。

1941年12月1日
11月26日、アメリカは日本からの交渉妥結案を拒否し、満州事変以前の状態に戻す内容に「ハル・ノート」を突き付けた。交渉不成立により、この日に開戦が決定された。(12月2日、山本連合艦隊司令著館は全軍に命令を発した。「ニイタカヤマノボレ1208」)

天皇はできるだけ戦争を回避しようとしたが憲法上の決定権はなく、軍部主導で開戦が決定したが、当初は世論も戦争を望んでいたのである。

真珠湾攻撃は奇襲攻撃であり成功した。しかし、その後すぐに日本は劣勢となり、戦争は泥沼化し、空襲、原爆などにより日本人は民間人だけでも80万人以上、総数で310万人以上の死者が出る痛ましい結果となったのである。

歴史を振り返り、過去に犯した過ちを繰り返さないために、どうすべきか考えることを忘れてはならない。

今回のブログは、半藤一利著「昭和天皇実録」にみる開戦と終戦岩波ブックレットNo.932)を参考とし、引用している。