さすらう隠居人の日記

旅、俳句、映画、ゴルフなど

妻の誕生日

昨日(12/11)は妻の誕生日であった。結婚して38年目になるが、初めてレストランを予約し妻の誕生日を祝った。

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デザートのプレート

このあと、レストランの方が記念写真を撮ってくれた。JALシティ名古屋というホテルのカフェ カナルというカジュアルなレストランであったが、アットホームな感じでいろいろな心遣いがうれしかった。

ホテルへは家からバスで行ったのだが、交通渋滞があり1時間で着くつもりが1時間半もかかってしまった。途中の栄という繁華街は人でごった返していたが、このレストランは感染対策がしっかりなされていた。席数も限定され、休日であるからかもしれないが、店内に客のグループが点在し、とてもゆったりとしていた。

テーブルには、キャンドルが置かれていた。

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テーブルのキャンドル

キャンドルの灯がゆらぐように、静かに時が過ぎて行った。

クリスマスが近くなっているが、その雰囲気はあまりなくサンタクロースの人形が一つだけあり、存在感を示していた。

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サンタさん

食事も美味しく、昨夜は妻も楽しそうであった。

隠居人となって半年経ったが、仕事をしていた時とは違う時間が流れており、今までできなかったことがいろいろとできるようになった。これからも新しいことをもっともっと行って、充実した時を過ごしていきたい。

江國滋さんの闘病俳句

このブログで、何度か東京やなぎ句会のことを取り上げたが、江國滋さんもそのメンバーの一人であった。彼の本は楽しくて蘊蓄があり、私は落語や俳句、旅行などのエッセイをよく読んでいた。

しかしながら、江國さんは平成9年(1997年)2月6日に食道癌の告知を受け、同年8月10日に62歳で亡くなった。その間、闘病日記を書き、闘病俳句223句を残している。

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江國滋「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」新潮社

この本は、1997年12月に発行されるとすぐに購入して読んだ。亡くなる2日前に書き付けた辞世の句

おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒

が本の表題となっている。
いつもは本を購入すると帯は取って捨ててしまうが、帯の裏側に瀬戸内寂聴さんの話が載っていたので捨てずに付けたままにしている。その寂聴さんも今はもういない。内容は以下の通りである。

江國さんは電話で私にそれを知らせてきた。
「医者が何と言ったと思います・・・・・・、高見順ですねって」
癌告知されたのが自分でなく第三者のような話し方だった。私は胸が痛くなった。
「でも、これで俳句の大傑作が生まれるでしょう。それをやらなきゃ」と言った。
その言葉を待っていたように、一呼吸も入れない速さで、「そう、そうですよ。もう作りはじめています」
「命をかけたものは傑作に決まっていますよ」
「そうか、命をかけているのか」江國さんはそう言って、急に沈黙した。
この克明な闘病日記が書きはじめられて十一日目、1997年2月15日のことだった。
(注:医者が高見順ですねと言ったのは、高見順が食道癌で亡くなっているからだと思う。)

江國さんは、亡くなる20年前に「俳句とあそぶ法」を書いている。私が俳句に興味を持つきっかけとなった本の一つである。

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江國滋「俳句とあそぶ法」朝日文庫

この本の中で、江國さんは、
「いっそのこと、病気にでもなって、入院でもして、手術の一つでも受けたら、あッとおどろく病床名句があとからあとから雲のごとくわいてくるかもしれない。子規を見よ、三鬼を見よ、波郷を見よ。すぐれた俳人のすぐれた俳句はみんな病床から生まれているではないか。漱石が『秋風や唐紅の喉仏』などというすごい句を作ったのも、あれは有名な修善寺大患の直後だった。そうだ、そういうものかもしれない。光は東方から、名句は病床から。・・・・・・」
と、ユーモアたっぷりと書いている。

急にこんなことを書いたのは、先月腹痛がひどく夜寝られない時に、江國さんのように病中吟を詠んでみようと思ってみたからである。その時作った句は、

胃痙攣耐え忍ぶ夜や神の留守

であるが、作句の力✕病の重さに比例するのか、自分の下手さ加減と江國さんの凄さを思い知った。

江國さんは「俳句とあそぶ法」で書いた通り、病床で多くの佳句を残し、寂聴さんが言ったように大傑作を生んだ。敬服に値する最期であった。

枯れ芒

散歩の途中の貯水池に芒が群生しているが、今は穂絮も飛び散り、穂も葉も枯れてきた。枯れ芒にはどこか哀愁が漂っている。

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枯れ芒

下の写真の左は9月28日、右は11月26日にブログで紹介した芒であるが、かなり趣に変化がある。

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話は変わるが、最近、山折哲雄さんの「生老病死」を読んだ。朝日新聞に毎週1回連載したエッセイ(この本では1回分が2ページ)をまとめたものだが、いろいろな視点から書かれており、とても面白く勉強にもなった。

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山折哲雄生老病死KADOKAWA

山折さんは今年で90歳である。この本の中で書かれていることが、数年前から幻聴が聞こえてくるそうだ。私は幻聴というのは囁きとか呟きとか叫びを想像していたが、「船頭小唄」のメロディーがはっきりと聞こえてきて、まとわりつき、はらってもはらっても追いかけてくるのだそうだ。

俺は河原の枯れ芒
同じお前も枯れ芒
どうせ二人はこの世では
花の咲かない枯れ芒

この歌のメロディーが聞こえてくるのである。この歌詞を確認するため、Wikipediaで調べたのだが、「船頭小唄」は野口雨情の作詞、中山晋平の作曲であり、「シャボン玉」、「証城寺の狸囃子」、「雨降りお月さん」などの童謡を作った名コンビによる作品であることを知った。この歌が大ヒットした後、関東大震災が起こっている。

蛇足になるが、「船頭小唄」は明仁上皇陛下のカラオケの十八番だそうである。

外交の重要性

昨日のブログ「日米開戦」にも書いたが、戦争を回避したい天皇の意思に反し、日本は先を見通すことができず外交努力が中途半端なまま、戦争に突入した。

終戦時も、敗戦が決定的となった後も、ソ連の仲介を期待して無為な時間が経過し、沖縄上陸、大規模な空襲、2度の原子爆弾の被弾、挙句の果てには降伏後にソ連の侵攻、シベリア抑留を招いてしまった。結果がわかっているので言えることだが、何かもっと外交努力ができなかったかと思ってしまう。

現在に視点を移すと、中国が尖閣諸島を脅かしている。沖縄はすぐ近くである。

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中国空母(globe.asahi.comより)

中国に対して強硬的な手段をとってほしいとは思っていないが、粘り強く交渉してほしい。岸田内閣にとっては、北京オリンピックへの対応が外交交渉の試金石となり注目している。台湾問題もあり、岸田内閣の命運を占う意味でも重要である。

ロシアについては、日本国民の多くが同じ意見だと思うが、ソ連時代より信用できない国である。北方領土を材料に日本を振り回している。最近は中国と一緒になって、さらに何かを引き出そうとしているとしか思えない。

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津軽海峡を航行する中露艦隊(news.yahooより)

ロシアに対しては、北方領土に引きずられない交渉が必要である。

北朝鮮については、岸田首相は拉致問題は最重要課題と言っていた。核、ミサイル問題と合わせて解決を図ってもらいたい。

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北朝鮮のミサイル実験(bbc.comより

経済力は脆弱でも、ミサイルと合わせて核を持てば、厄介な国となってしまう。

もっとも近く協力し合えるのが韓国であると思うのだが、日本に対する敵対意識が強い上に、米韓同盟がありながら中国に擦り寄ったり、北朝鮮と手を結びたがったり、困ったものである。

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韓国の竹島上陸(sankei.comより)

文政権に対しては匙を投げているかに見えるが、外交努力は怠らず、来年発足する新政権とは協調していってもらいたい。

近隣の4国に対しては、慎重に粘り強い外交交渉が重要であり、アメリカへの対応も間違えてはいけないが、アジア諸国をはじめ幅広い国々との友好が日本の基盤を強固にするためには重要である。

日米開戦

8年前の1941年(昭和16年)12月8日、日本が山本五十六連合艦隊司令長官のもとに真珠湾を奇襲攻撃することにより、日米開戦となった。

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山村聡扮する山本五十六
(映画「トラトラトラ」より)

1941年6月22日、ドイツが対ソ宣戦布告し、破竹の勢いで侵攻しモスクワ陥落も間近と考えられ、日本も「バスに乗り遅れない」、「尻馬に乗る」というと語弊があるかもしれないが、この後急速に日米開戦に向って突き進んで行った。

節目節目では御前会議(日米開戦まで昭和16年に4回)が開催されたので、その内容を参考に経緯を見ることにしたい。

1941年7月2日
この会議で、大東亜共栄圏の建設、南北併進、目的達成のためすべての障害を排除する、帝国は本号目的達成のため対英米決戦を辞せず、などが明文化された「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定された。(この後、7月23日に日本軍は進駐を決定、26日にアメリカは在米日本資産を凍結、28日に日本軍はサイゴンへ進駐、8月1日にアメリカは石油の対日輸出を全面的に禁止した。)

1941年9月6日
戦争を辞せざる決意の下に外交交渉を行い、十月上旬頃に至るもなお要求を貫徹し得る目途なき場合においては、直ちに対米開戦を決意するという内容の「帝国国策遂行要領」が決定された。(天皇明治天皇の「よもの海まなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ」の御製をもって、軍に対する警告をし、平和愛好の精神を示した。また、この後、10月に近衛内閣は政権を投げ出し、東條内閣が成立した。)

1941年11月5日
12月初頭の英米蘭戦を定める「帝国国策遂行要領」が改めて決定された。

1941年12月1日
11月26日、アメリカは日本からの交渉妥結案を拒否し、満州事変以前の状態に戻す内容に「ハル・ノート」を突き付けた。交渉不成立により、この日に開戦が決定された。(12月2日、山本連合艦隊司令著館は全軍に命令を発した。「ニイタカヤマノボレ1208」)

天皇はできるだけ戦争を回避しようとしたが憲法上の決定権はなく、軍部主導で開戦が決定したが、当初は世論も戦争を望んでいたのである。

真珠湾攻撃は奇襲攻撃であり成功した。しかし、その後すぐに日本は劣勢となり、戦争は泥沼化し、空襲、原爆などにより日本人は民間人だけでも80万人以上、総数で310万人以上の死者が出る痛ましい結果となったのである。

歴史を振り返り、過去に犯した過ちを繰り返さないために、どうすべきか考えることを忘れてはならない。

今回のブログは、半藤一利著「昭和天皇実録」にみる開戦と終戦岩波ブックレットNo.932)を参考とし、引用している。

家事

12月5日にブログでラグビー早慶戦のことを書いたが、その日の夜、今も社会人でラグビーを行っている次男から、指を骨折(指は3本目で、通算4回目となる)したと連絡があった。腓骨骨折(この時はひどかった)やアキレス腱断裂した時と違い生活には大きな支障はないが、もっと気をつけなければいけないと苦言を呈したところ、次男から「指は折れても、お父さんよりは家事してますよ。」と生意気にのたもうてきた。私の最近の家事の実態を知らないからである。

「男子厨房に入らず」ではなく、毎日何度も台所に立っている。

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包丁使いが巧くなった(自画自賛

確かに以前は、灯油を買いに行ったり、リサイクルセンターへ新聞紙や段ボールを持って行ったり、力仕事以外のことは殆どしたことがなかった。子供のことも(大事なことは相談に乗っていたはずだが)ずっとほぼ妻任せであった。長男が塾で働いているので、最近は子供が受験した頃の話も出るが、知らないことが多く、他人事のように聞いているところがある。

ところが、今は違うのである。週2~3回、妻が働きに行く日は夕食を作る。そのため、散歩の帰りにスーパーで買い物をすることもよくある。食後の皿洗いもするようになった。風呂も毎日洗い、雨戸も閉めるようになった。

家事をよくするようになったと言っても、書き上げてみるとこれだけしか行っていないのかと情けなく、自責の念に駆られる。しかしながら、妻は満足しているのである。以前何もしていなかったので、改善度が高く、そこを評価しているのかもしれない。

掃除、洗濯がノータッチであった。次男はどこまでしているのか知らないが、手伝う領域をもっと広げようと、今回あらためて思い至った。

アップルウォッチ

従来、私はあまり高価な腕時計には興味がなく、薄型でシンプルなものを使っており、身近でアップルウォッチを使っている人がいたが、文字盤を見るとおもちゃみたいで時計としては身に着ける気はしなかった。

しかしながら、今年の初め、施設にいる母親が誤嚥性肺炎で緊急搬送され、集中治療室にかなり長く入らなければならなくなった時、スマホを会議室に持ち込み置いておくわけにもいかず、電話やメール、LINEなどの着信がわかるアップルウォッチが頭に浮かび、会社近くのアップルストアへ見に行った。

その頃、コロナの感染者が急増し、自宅療養を強いられるケースもあり、血中酸素濃度を正確ではないかもしれないが測ることもできることを知った。他にもいろいろな機能がある。もちろん、本来の目的である電話やメールなどの着信を振動で知ることができ、どこからの発信されたもかも確認できる。

買うことを決め、傷つきにくいサファイアガラスにするなどして、結局8万円近い買い物になり、自分にとっては今までで最も高価な時計となった。

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アップルウォッチ Series6

その後、隠居人となりこの時計の活躍の場が拡がった。7月18日のブログ「太りすぎないために」にも書いたが、通勤しなくなったことにより太りすぎることを心配していたが、この時計が助けとなった。消費カロリーや何らかの運動した時間を示してくれるし、1時間座り続けないよう知らせてもくれる。

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多彩なな機能

数字で示されると目標達成意欲が湧き上がってくるので、毎日散歩や四股踏み、ダンベル、ケトルベルなど最低限の運動を行うことができている。

8月28日のブログ「半径1.5mの生活」で書いたように、半径1.5m内の時間が多いが、その中でこまめに動くことも忘れず、結果的に太りすぎることを怖れていた体重もこの半年間、毎月順調に減少している。(約63kg⇒約59kg)

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体重推移

今後は、この時計の他の機能をもっと活用したいと思っている。